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物理学の手法「テンソルネットワーク」を用いて計算の圧倒的効率化を図る。

原田健自(はらだけんじ)

統計物理学テンソル解析チーム・リーダー
京都大学 情報学研究科 助教

京都大学大学院工学研究科応用システム科学専攻で学び、1998年に博士(工学)を取得。同年、京都大学情報学研究科に助手として着任。物性物理における数値的なアプローチの深化とその応用に関心をもつ。統計物理学と情報論的視点を融合した最先端の計算手法とスーパーコンピュータを組み合わせて、 相互作用する多体系などの大自由度系の未解決問題に取り組む。

未来のモビリティ社会では、AIが搭載された自動運転車が、自律的に互いに連携しながら走行することが実現すると考えられている。しかしその実現のためには、膨大な量のデータの計算をリアルタイムで刻一刻と各車のコンピュータが行う必要がある。統計物理学テンソル解析チームのリーダーである原田健自助教は、統計物理で使われる「テンソルネットワーク」という概念を用いて、膨大なデータを分割・圧縮し、計算の効率を飛躍的に高めるアルゴリズムの開発に挑んでいる。原田助教の研究について話をうかがった。

※本記事は「モビリティ基盤数理研究ラボ」の前身となる「モビリティ基盤数理研究ユニット」時のものになります

計算機シミュレーションで協力現象の解明に挑む。

——まず初めに、先生が研究されている専門分野について教えてください。

私は京都大学の「非線形物理学講座」という部署に所属し、そこで統計物理学をバックボーンとした関連研究を行っています。とくに計算機を用いたシミュレーションによって、統計物理の「協力現象」と呼ばれる事象のメカニズムの解明に取り組んでいます。

協力現象とは、物質を構成する粒子がたくさん集まり、お互いに影響を与えあうことで初めて現れる現象のことを指します。例えば水分子の一つ一つは、ミクロレベルで見ると単純な運動法則によって動いています。しかしアボガドロ数(物理学において原子・分子の個数を表す定数。6.0×10の23乗のこと)ほどの水分子が集まって、温度や圧力を変化させると、液体の水が固体の氷、気体の水蒸気へと変化し、まったく異なる性質の状態へと巨視的に変化します。
そのような「多体系」と呼ばれる、非常に多数の粒子からできている系は、要素同士があちこちで相互に影響しあっています。それゆえに何かしらの式に変数を入れて一発で答えを求める代数解析的な計算手法よりも、コンピュータを用いた力技の計算で近似解を求める数値計算的手法の方が、系の分析には向いていることが多いのです。そういった理由から私たちは、コンピュータを用いることで初めて明らかにできる可能性がある、多体系の物理現象の研究に積極的に取り組んでいます。

別の言葉でいうならば、私たちが取り組む統計物理は「ミクロな世界とマクロな世界を結ぶ物理の分野」であると言えるでしょう。物質を原子、電子レベルのサイズで捉えるミクロな世界は、量子力学によって記述することが可能です。しかしスケールが大きくなり、目に見えるマクロサイズになったときの物質の振る舞いと量子力学的振る舞いには、大きな乖離があります。その間をつなぐメカニズムには不明な点が多く、明らかにするためにさまざまなアプローチが行われていますが、その一つが計算機によるシミュレーションなのです。

「テンソルネットワーク」を活用したアルゴリズムを開発

——そうした先生の研究のバックボーンを踏まえて、このモビリティ基盤数理研究ユニットではどのような研究をメインテーマとされているのでしょうか?

私たちの主要な研究テーマは、モビリティの「位置」や「時間」や「速度」など、さまざまなインデックスがついている情報を「テンソルネットワーク」と呼ばれる数理的な手法を用いて、効率よくコンピュータで計算する手法の探求です。そうした複数のインデックスがついたデータを「テンソル型データ」と呼びます。テンソル型データを効率よく解析したり、圧縮できる新しい手法を、統計物理の手法・発想を用いて生み出したいと考えています。テンソルネットワークは量子情報とも関わりが深く、重要なツールとして有望視されています。

——テンソルとはどのようなものなのか、もう少し詳しく教えてもらえますか?

テンソルとは、「ベクトル」と「行列」を拡張したものといえます。中学数学で習うベクトルは「1階のテンソル」、高校数学で習う行列は「2階のテンソル」と表すことができ、テンソルを使うことで3つ以上にインデックスの数が増えても表現することが可能となります。コンピュータのRPGゲームのキャラクターには「強さ」「賢さ」「耐久力」「魔法の力」など、さまざまなパラメータがありますが、そうした複数のパラメータで特徴づけられるキャラクターの集団を一度に計算できる手法と考えるとイメージしやすいかもしれません。

そして、テンソルネットワークとは、テンソルを用いて表した情報を、より小さなテンソルの縮約(積)として表現するとともに、グラフの形に図形化した概念になります。例えば1つの行列を2つの小さな行列の積に分解できた場合、テンソルネットワークでは行列2つを◯で書き、その2つを線で結ぶことで表現することができます。2020年のノーベル物理学賞は、ブラックホールを数理物理的に考察したロジャー・ペンローズら3名の研究者に送られましたが、テンソルネットワークの表記法は、そのペンローズが1970年代に生み出したと言われています。テンソルの添字の線を複数結ぶことで、行列積のようにまっすぐの関係性だけではなく、枝分かれさせたり、円環させたり、きれいにグリッド上に並べることもできます。

グラフの形に図形化したテンソルネットワーク(一例)

テンソル型データをテンソルネットワーク形式にすることの利点は「データを圧縮して持てる」ことです。元のデータと完全に一致するわけではありませんが、計算手法を工夫することで、元データにかなり近い状態で、データ量を10分の1から1万分の1ぐらいにまで減らすことができます。それゆえテンソルネットワークのデータ圧縮により、沢山のデータを計算資源の低い(性能の低い)コンピュータでも処理することが可能になると考えられます。テンソルの概念は近年、工学でさまざまな応用がなされており、「CP分解」や「タッカー分解」と呼ばれる手法によって、データを圧縮し、特徴を抽出する研究が盛んに行われています。私たちのチームでもそれらの研究を参考に、独自の手法を編み出したいと考えています。

コンピュータの計算アルゴリズムそのものを見直す。

——テンソルネットワークを使ったアルゴリズムで、将来のモビリティ社会の構築にどのような面で貢献できると考えていますか?

現在はテンソル型データそのものをどう扱うか、検討している段階ですが、さまざまな応用が考えられるでしょう。テンソルネットワーク形式の計算によって、データの変化が効率よくスピーディに読みとれるようになれば、例えば将来の自動運転社会社会における「異常検出」などにつながるのではないかとも考えています。テンソルネットワークを用いたテンソル型データの解析を速やかに行えることで、自動車の事故を防いだり、渋滞の回避ルートをいち早く得られるなど、最適なモビリティ社会の構築に貢献できる可能性は多々あります。

——テンソルネットワークによる計算で、「モビリティのデータ」をどう処理するか、どう格納するか、どう可視化するかに新しい応用がもたらされる可能性があるわけですね。

そのとおりです。近未来の完全な自動運転が確立した社会では、一台一台の車に搭載されるコンピュータも、それを統合して管理するネットワーク上のコンピュータも、現在とは比較にならない量の計算を行う必要が確実にあります。例えばカメラに映った画像をもとに、瞬時に判断しなければならない場面などで、非常に多くのパラメータを計算しなければならないことが考えられます。私たちのユニットの目的の一つは、そうしたものすごく多くのデータを圧縮することで、小さな計算資源のコンピュータでも瞬時に計算できるようにすることです。テンソルネットワークはそのような大量の計算に向いた手法といえます。例えば100×100の行列をネットワークで表せばパラメータの数は1万個になり、1000×1000の行列になるとそれが100万個になります。それが10層積み重なれば、1000万個ものパラメータになるわけです。

現在のAIが処理するニューラルネットワークは、パラメータの層が30層、40層あることも珍しくありません。そうした複雑な計算を行うために現代のコンピュータはGPUのような非常に計算速度の速いチップを搭載するようになっていますが、コンピュータの計算速度の進化を表す「ムーアの法則」も頭打ちになっていると言われており、計算のアルゴリズムそのものを新たに生み出す必要性が高まっていると考えています。

図表を使ってテンソルネットワークを説明する原田先生

移動に何の苦労もない社会をつくりたい。

——このモビリティ数理ユニットは、トヨタの協力のもと、さまざまな分野の研究者が集って共同研究を行っています。そのことの意義について、どのように感じていますでしょうか?

モビリティの研究には非常に幅広い分野が関わるため、普段は接することがない分野の研究者と一緒にセッションすることで、とても大きな刺激を受けています。定期的なミーティングの機会に、固有値計算の応用数学など、物理学以外の分野の研究者の話を聞けることが、自分の研究のヒントとなることも多々あります。関連しそうな論文を紹介してもらったり、最適化問題に取り組む先生からは、問題の前提自体を見直すことについてのヒントをもらえたこともありました。

——最後に、先生の考える「理想のモビリティ社会」についてお考えをお聞かせください。

私は、未来のモビリティ社会について「移動のストレスがなくなること」が究極的な理想だと考えています。現在は街なかを歩いていて、タクシーを捕まえて行き先を告げても、道路が混んでいたりすれば何時に目的地に着くかわかりません。しかしもしも完全にシステム化されたAIによる自動運転が実現すれば、スマホに入力するだけで車が目の前に迎えに来てくれ、予測通りの時間に目的地に連れて行ってくれる、といったサービスが実現するはずです。いま高齢化が進む日本では、地方のお年寄りの移動が大きな問題になっていますが、そうした問題を解決し、「国民全員が移動に関して何の苦労もない社会」を実現するために、研究を進めていきたいと思います。